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『立正安国論』 第二段 「災害の証拠」 壱 [立正安国論]

 前回で旅客は「近年より近日に至るまでの災害はなぜ起き、どうして祈祷の効果が顕れないのか」と嘆き主人に尋ねた。主人の答えとして「僭越ながら申し上げますが、経文を開いてみると世の中の民衆が正法に背き邪法に帰依しているため、本来守護する役目があった諸天善神は国を去り、聖人はその場を去って帰らず。それに代わって悪鬼・鬼神が我が物として神社や堂宇に住みつき、人々の混乱を招いているのである」と経文の中身を集約されたのだった。
 この答えに対し旅客は大変驚き、まさに仏法に理解できない人々にとっては驚天動地の内容であり、容易に信じがたく解しがたい御教示である。では、その第二段を見ることにしよう。


 客の曰(いわ)く、天下の災・国中の難、余(よ)独り嘆くのみに非ず、衆(しゅ)皆(みな)悲しめり。今蘭室(らんしつ)に入(い)りて初めて芳詞(ほうし)を承(うけたまわ)るに、神聖(しんしょう)去り辞(じ)し、災難並び起こるとは何(いず)れの経に出(い)でたるや。其(そ)の証拠を聞かん。


 通釈
 客が言うには、天下・国中の災難については、自分ひとりだけが嘆いているのではなく、大衆が皆悲しんでいる。今あなたの所に伺って、初めて立派な御意見を承(うけたまわ)ったところ、善神や聖人が高度を捨て去る故に災難が相次いで起こるということであるが、それは、いったい、いずれの経典に出ているのか。その証拠を聞かん。

○蘭室
 蘭香の室の意で、高徳の人、善人、佳人のいる所。香りの高い蘭のある室にいると、その香りが身体にしみてくることから、高徳の人や善人と共にいると、いつのまにか、その徳の感化を受けるということに譬(たと)えた話。

○芳詞(ほうし)
 芳(かんば)しい詞。立派なお話という意味。

○神聖(しんしょう)
 ここでは、善神と聖人を並べて略したもの。

 前回の主人の答えに、旅客は「そのような説は初めて聞いた。もし、根拠があるならば伺いたいものである」として、まず文証(経文上の証拠)の提示を求めたのである。



 主人の曰く、其(そ)の文(もん)繁多(はんた)にして其の証(しょう)弘博(ぐはく)なり。

 通釈

 それに対して主人が答えて言うには、そのような経典はたくさんあり、その証拠は数え切れないほどである。

○其の証弘博なり
 弘も博も「ひろい」の意。災難の起こる原因を明かした経文、証拠は、諸経中、いたるところにあり、あらゆる角度から論じられていることをいう。


 金光明経(こんこうみょうきょう)に云(い)はく「其の国土に於て此の経有りと雖(いえど)も未(いま)だ嘗(かつ)て流布(るふ)せしめず、捨離(しゃり)の心を生じて聴聞(ちょうもん)せんことを楽(ねが)はず、亦(また)供養し尊重し讃歎(さんたん)せず、四部の衆(しゅ)、持経(じきょう)の人を見るも、亦復(またまた)尊重し乃至(ないし)供養すること能(あた)はず。

 通釈

 まず金光明経には、次のように説かれている。
 「(四天王が仏に申し上げて言うには、もし、ある国王がいて)その国土に正法があるにもかかわらず、国王がそれを流布させないで、むしろ、捨て離れる心を起こして聴聞しようともせず、供養することも、尊重することも、讃歎(さんたん)することもせず、正法を持(たも)つ四部の衆(しゅう)や持経の人を見ても、なお尊重も供養もしない。

○金光明経
 釈尊の一代五時説法のうちの方等時の経で、ここで引用された文は、金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)第六巻四天王護国品の一節である。

○其の国土に於て
 経文には、この文の前に「爾(そ)の時に四天王倶(とも)に合掌して仏に曰(もう)して言(いわ)く、世尊若(も)し人王(にんのう)有り」とある。すなわち、以下に続く文は、四天王が仏に向かって述べた言葉である。

○未だ嘗て流布せしめず
 国王がこの経を流布させない、という意。

○捨離の心を生じて
 捨離とは、捨て離れること。この文は、国王が、正法に対して捨離の心を生じた、との意。

○四部の衆
 比丘(びく)・比丘尼(びくに)・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)をいう。比丘・比丘尼は出家して受戒した男子と女子。すなわち僧と尼僧(にそう)のこと。優婆塞・優婆夷とは、俗家(ぞくけ)にあって仏法を信行する男子と女子のこと。

○持経の人
 正しい仏法を信じ持(たも)つ人。


 遂(つい)に我れ等(ら)及び余の眷属(けんぞく)、無量の諸天をして此の甚深(じんじん)の妙法を聞くことを得ず、甘露(かんろ)の味はひに背(そむ)き正法(しょうぼう)の流れを失ひて、威光(いこう)及以(および)勢力有ること無からしむ。悪趣(あくしゅ)を増長(ぞうちょう)し、人天(にんでん)を損減(そんげん)して、生死(しょうじ)の河に墜(お)ちて涅槃(ねはん)の路(みち)に乖(そむ)かん。

 通釈
 そして我れ等(帝釈天や四天王)および眷属である無量の諸天に対して、この甚深の妙法を聞けず、(諸天が食べ物としている)甘露の味わいを得られず、(諸天が飲み物としている)正法の水流に浴せず、ついには威光、勢力がなくなるようにされてしまう。しかして、国中に地獄、餓鬼、畜生、修羅などの四悪趣(しあくしゅ)が増長して、人界、天界の境界はそこなわれ、煩悩の苦しみに落ち込んで、涅槃(成仏)の道に背き遠ざかってしまうのである。

○我れ等及び余の眷属
 我れ等とは、帝釈天王を中心として、東西南北を守る四天王のこと。東を守るのが持国天王、西を守るのは広目天王、南は増長天王、北は毘沙門天王である。余の眷属とは、それ以外の諸天善神のことである。

○此の甚深の妙法
 いちおうは金光明経のことをさす。方等部(ほうどうぶ)に属する金光明経を、なぜ妙法と称しているのかといえば、所対不同(しょたいふどう)の故である。つまり、外道に対すれば、小乗教である阿含経(あごんきょう)も、なお妙法と称することができ、小乗教に対すれば、権大乗教(ごんだいじょうきょう)である方等部の金光明経も妙法といえるからである。かくのごとく、所対の不同によって、爾前(にぜん)の諸経であっても甚深の妙法と称する場合があるが、一切経(いっさいきょう)を従浅至深(じゅうせんしじん)して判ずるならば、真の甚深の妙法とは、文底下種の妙法蓮華経に限られる。したがって、文(もん)はいちおう金光明経をさしているが、日蓮大聖人の御真意においては、文底下種の妙法蓮華経をさすものであると拝さねばならない。

○甘露の味はひに背き正法の流れを失ひて
 甘露の味わいとは、天界の衆生(諸天善神)の食(しょく)のことで、諸天は、仏の説いた正法、及び正法によって顕現(けんげん)する仏界(ぶっかい)を食として、正しく強く働く。また、正法の流れも甘露の味わいと同義であって、正法を諸天の飲む水にたとえた語。したがって、この文は、諸天善神にとっての食となり水となる正法を、国王が断つゆえに、諸天は飢え渇(かわ)いた状態となって、諸天としての働きをなすことができない、との意。

○悪趣
 趣(しゅ)とは境界(きょうがい)の意で、十悪(じゅうあく)・五逆(ごぎゃく)・謗法(ほうぼう)の悪業を犯した者が堕ちる苦悩の境界を悪趣という。ここでは地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣(四悪道)のこと。

○生死の河
 生死(しょうじ)とは、生老病死という人生の根本的な苦しみのことで、煩悩に支配された迷いと苦悩の生活。ここでは、前(さき)の四悪趣に人(にん)界・天界を加えた六道(りくどう)を輪廻する人生のこと。

○涅槃の路
 涅槃とは梵語で、滅度(めつど)・寂滅(じゃくめつ)・解脱(げだつ)などと訳す。一切の煩悩を滅ぼし、永遠不滅の幸福感を得た悟りの境涯をいう。ここでは、前の六道から脱却した、声聞・縁覚・菩薩・仏の四聖(ししょう)をもって涅槃となしている。


 世尊(せそん)、我等四王(しおう)並びに諸(もろもろ)の眷属及び薬叉(やしゃ)等、斯(か)くの如き事(じ)を見て、其の国土を捨てゝ擁護(おうご)の心無けん。但我等のみ是の王を捨棄するに非ず、必ず無量の国土を守護する諸大善神(しょだいぜんじん)有らんも皆悉(ことごと)く捨去(しゃこ)せん。既に捨離し已(お)はりなば其の国当(まさ)に種々(しゅじゅ)の災禍(さいか)有りて国位を喪失すべし。

 通釈
 世尊よ、我れ等四天王並(なら)びに諸々の眷属、及び夜叉等は、かくのごとく国王が正法を流布せしめないことを見て、その国土を捨てて擁護(おうご)しなくなってしまうであろう。そのうえ、ただ、我れ等四天王のみがこの国土を捨て去るばかりでなく、国土を守護する無量の諸天善神も、必ず皆、悉(ことごと)く国土を捨て去るであろう。

○夜叉
 勇健(ゆうけん)・能嘶鬼(のうたんき)と訳す。本来は形貌醜怪(ぎょうぼうしゅうかい)で猛悪(もうあく)なインドの鬼神(きじん)であるが、仏教においては、天・竜・乾闘婆(けんだつば)・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩睺羅伽(まごらか)と共に八部衆(はちぶしゅう)として、また毘破門天の眷属として、法華経の行者を守護する。

○斯くの如き事を見て
 国王が正法を「未(いま)だ嘗(かつ)て流布(るふ)せしめず」にいることを見て、の意。

○擁護の心無けん
 謗法(ほうぼう)の国土には、諸天善神の守護がなくなってしまう。けれども、もし正法の行者があれば、諸天は行者の頂(いただき)に宿って、その行者を守護するのである。二十六世・日寛上人は「持経者(じきょうしゃ)に於(おい)て亦(また)両向(りょうこう)有り。開目抄の意は、謗法の世をば守護神捨て去る故に正法の行者に験(しるし)無し等云云。八幡抄(はちまんしょう)の意は、其の国を捨去(しゃこ)すと雖(いえど)も、若(も)し正法の行者有れば即(すなわ)ち其の頂に宿る等云云。是れ共業別感(ぐごうべっかん)に由る故なり」と仰せられている。


 一切の人衆(にんしゅ)皆善心(ぜんしん)無く、唯(ただ)繋縛(けばく)・殺害・瞋諍(しんじょう)のみ有って、互ひに相(あい)讒諂(ざんてん)して枉(ま)げて辜(つみ)無きに及ばん。疫病(やくびょう)流行し、彗星数(しばしば)出で、両(りょう)の日並び現じ、薄蝕(はくしょく)恒(つね)無く、黒白(こくびゃく)の二虹(にこう)不祥の相を表(あら)はし、星流れ地動き、井の内に声を発し、暴雨・悪風時節(じせつ)に依(よ)らず、常に飢饉(ききん)に遭(あ)ひて苗実(みょうじつ)成らず、多く他方の怨賊(おんぞく)有りて国内を侵掠(しんりょう)せば、人民諸(もろもろ)の苦悩を受けて、土地として所楽(しょらく)の処(ところ)有ること無けん」已上

 通釈
 すでに諸天善神が捨て去ってしまったならば、その国には種々(しゅじゅ)の災禍(さいか)があって、まさに国主はその地位を失ってしまう。一切の人衆(にんしゅう)は、皆、善心(ぜんしん)がなく、ただいろいろな束縛や、殺害、争いばかりがあって、互いに相手を讒言(ざんげん)し、罪のない者をも曲げて罪に陥(おとしい)れるであろう。そして、国土には疫病が流行し、空には彗星がしばしば出て、一度に太陽が並んで現れ、日食や月食などの薄蝕(はくしょく)が規則通りに行われず、黒白(こくびゃく)の虹が出て不詳の相を現し、流れ星が出、地震が起きて、井戸の中から異様な地鳴りがする。また、大雨や暴風があって、風雨(ふうう)が時節どおりでなく、常に飢饉に遭って、穀物が実らず、多くの他国の怨賊(おんぞく)が国内を侵略し、人々は諸々の苦悩を受け、楽しく生活のできるところはどこにもなくなってしまうであろう」以上。

○繋縛・殺害・瞋諍
 繋縛とは束縛されて自由を失うこと。殺害とは殺人。瞋諍とはけんか、争いのこと。

○讒諂
 讒は讒言で、事実を曲げて、他人を悪く言うこと。諂は諂訣(てんゆ)で、諂(へつら)うこと。すなわち、他人を讒言して罪に陥れ、自分は目上の者に媚びへつらってよく思われようとすること。

○枉(ま)げて辜(つみ)無きに及ばん
 法律を曲げて、罪のない者まで陥れようになるであろうとの意。

○彗星
 「けいしょう」とも読む。ほうき星のこと。古来より、彗星の出現は、大火や兵乱(ひょうらん)などの起こる悪い前兆とされている。

○両の日並び現じ
 太陽が二つ三つと同時に並んで出ること。一つだけが実物で、他は幻の太陽である。大気中の微細な氷の結晶などから成る雲を光線が通るとき、反射・屈折した結果、生ずる暈(かさ)が正体で、その交差するところがとくに輝いて、太陽が並び出たかのように見えるのである。陰陽道(おんようどう)では、二つの太陽が並び出ることを、国に二王が並び立ち、世の中が乱れる瑞相(ずいそう)であるとした。日寛上人は、「尭(ぎょう)の時、十の日並び現ずること註(ちゅう)の如し。劫末(こうまつ)に七の日現わるること涅槃経(ねはんぎょう)の如し云云」と仰せられている。
 また最近の例では、昭和四十九年四月に、東京都内に現れた二つの太陽の写真が新聞に載り、昭和五一年二月二五日には、近畿、四国地方で、太陽を中心に虹の輪がかかり、その輪の中に小さな幻の太陽が三つ現れるという珍しい幻日(げんにち)現象が見られ、数紙に写真が掲載されている。


○薄蝕恒無く
 薄(はく)とは、太陽や月が出ていながら、大気中の塵埃(じんあい)などにより、その光を失うこと。蝕(しょく)は日食や月食のこと。恒無くとは、通常通りではない、との意で、臨時に日食・月食が起きること。

○黒白の二虹
 七色の虹ではなく、黒や白の虹。急激な気候の異変によって生ずる、悪気流のようなものではないかと考えられる。白虹(びゃっこう)は、霧雨のように細かい雨滴(うてき)に光があたってできる。昔の中国では、白虹は革命や戦乱の前兆とされた。

○井の内に声を発し
 地震のとき、地震波(じしんは)によって空気が振動し、井戸の中から遠雷や大砲の音のような音を発することがある。あるいは地鳴りのことをさすものとも考えられる。

○侵掠
 侵略と同じ意味で、他国を攻撃し、国土を奪うこと。


 金光明経において釈尊の説法を聞き終わった四天王が、つまり大持国天王・大毘沙門天王・大広目天王・大増長天王が護国について自ら考えた所を、仏に向かって申し上げている箇所である。この趣意は、国王が「此の経」、つまり仏の尊い教えを軽視すること、あるいは侮蔑することが非常に大きな災難につながることを述べているのである。
 これを現在に置き換えれば、日本国憲法で主権があるのは私たち国民である。つまり主権在民
であるので、国民が正しい法に背くことになれば人心が荒廃し、疫病や災害など現証として現れてしまうのである。正しい仏法で甘露のごとき最上の勝れた法味を受けていたことにより、国土を守る善神らが正しくはたらきを為していた。しかし、国民が正しい法から捨離の心を生じ、自分の主観で宗教を判じ、あるいは宗教に関わるのが嫌で世間の娯楽に浸りたいという怠惰の心が世の中にあふれていくと、ついに正法の功徳の流れを滅失し、善神の護国のはたらきは為さなくなってしまうのである。
 顧みれば、江戸時代において寺請け制度(檀家制度)に安住し、布教を忘れた宗教的堕落を招き、民衆はこれは軽視して敬遠する風潮が強かった。また国民から宗教論議を奪ったのは明治政府の国家神道対策(廃仏毀釈)に端を発し、明治四年五月一四日にはすべての神社を国家の宗教と定めた。強引に推し進めたその結果、言論の自由・信教の自由が奪われ、勝てもしない戦争を引き起こし敗戦した。
 それと反発するように日本国民の宗教的意識が低下し、戦争直後に新興宗教が跋扈(ばっこ)。宗教の無知によって邪教が誘因される結果となった。
 こうした幾重の誘発によって日本国民は宗教離れ化したのである。

 また「宗教」の代名詞に「心」を使う宗教学者が増えているが、宗教=心という考えは誤りである。なぜならば、心を正しく導くのが宗教だからである。

 また昭和四九年と五一年の不可思議な現象であるが、実はこの頃において創価学会等の問題が起きていた。第六十六世日達上人が、創価学会の池田本仏論を初めて公の場で破折せられたのが昭和四十九年四月の法華講春季登山のお御目通りの席であった。その時期に、二つの太陽が観測されたわけである。さらに昭和五一年といえば、まさに元妙信講問題と創価学会教義逸脱問題が起きて、日蓮正宗を揺るがす事態となっている時期であり、そういう状況の中で、太陽が三つ四つ現れる、という現象が確認されたのである。
 経典には、国に大謗法が充満した時に、自然界にこうした異常な現象が起きることが説かれているわけだが、創価学会の大謗法路線が露呈し、日蓮正宗と対立する事態が起こった、まさにその時に符合し、こういった現象が起こっている。この事実をよく考えなければならない。

 (続く)

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